ももんが山のももんがです。
↓人生の中盤頃までなんともダークな内容が続きますが
このブログのテーマでもある「生き直しミッション」により
元気にひとり親、2児の母を楽しんでおります。
2度の乳がんで胸は両方無くなりましたが
今の自分がとても好きです。
母が私を妊娠中、もう長男長女がいるので
子供のいない親戚の元へ里子に出される予定だったそうです。
(まだ胎内なのにハードモード開始)
生後すぐ、命に関わるような脱水症状で
あと3分遅れていたら死んでいた、という危機一髪。
カップラーメンができあがる時間だ!!
最初にDVを目にしたのは幼稚園の時でした。
長い髪をつかみあげられて泣いている母を見ました。
その後、息の仕方を忘れて気絶しそうになったり
怪奇現象(?)を何度か体験してきた事など、
あの時からの積み重ねが、今の私を創りあげました。
(父を恨んではいません。両親を愛しています)
福島の大自然の中で育ちました。
松の実を石で叩き割って食べました。
石器を開発することもありましたが
石のままが一番よく割れました。
しんぷる・いず・べすと、じゃな
小学4年生で登校拒否(不登校)
強引に連れていかれるも、
大人相手に力で叶うわけもない非力な自分を嫌悪し
男性に生まれたかったと強く思いました。
この頃、学校に行きたくない理由のひとつとして
学校に行っている間、母がいなくなってしまうのが怖かったから、でした。
私が学校を休めば母が叱られ、また泣かせてしまうのに
母がもう帰ってこないかもしれない不安に怯え
随分困らせてしまいました。
恩師のおかげで立ち直るも、中学2年生で再・不登校
比べられ競わされる学校教育が苦痛でした。
取り柄のない自分に劣等感しかありませんでした。
小さい頃にはよく褒められ、その反動だったように思います。
友人たちに支えられ、
幸い、高校生になれました。
19歳、異形小葉過形成(ALH)の手術をしました。
そんな経験もあり、
20代前半は自暴自棄に、刹那的に生きてしまいます。
長く生きれない、と思っていました。
実家はそれぞれがすれ違い、荒れていました。
自分の居場所がなくなり家を出ました。
両親も離婚しました。
ひょんなことから世界が広がり、日本各地に友人ができ始めます。
26歳、生まれ育った福島から大阪へ移住しました。
友人の助けもあり、新しい土地で、新しい生活が始まるも
母がその数か月後、脳出血で寝たきりになってしまいました。
そして、東日本大震災が起きました。
最初の入院から4年4か月後、
母は55歳の若さで永眠しました。
私にとって、ガンの話をするよりも
結婚生活の話のほうがはるかにダメージが大きく
思い出すと、心身共に不調に偏ります。
それでも、子供が育てば育つほど、時間が経てば経つほどに
いつか忘却の彼方へ葬れるように。
そうしていくためにも、私は自分の幸せを上書きしていく必要があるのです。
話せば長くなる事ばかりで(少しずつ記事のほうで書いていきます)
離婚して、ひとりで子供を育てていく道を選んで
本当にやっていけるのか、不安もありながら
それでもこうして娘たちと両手をつないで生きている今があります。
帰る家さえあれば、
とぼくは思うよ
今までも、これからも起きるであろう試練も
行けるところまで行ってやろうと思うのです。
もうここまで来たら、我慢せずに
生きたいように生きると決めました。
幸せな姿を子供に見せて
いつか前進する娘たちが過去と私を振り返る時、笑顔の母親でありたいです。
私の経験や選択が、
まだ見ぬ誰かの不安に寄り添えたらと思うのです。
当時離婚に向けて進みだした時に
親しい友人達をはじめ、
市役所の女性相談(DVや育児など、相談を聞いてくださるのです)
職場、メンタルクリニックなど、
たくさんの方に救っていただきました。
今度は私の番です。
私が支える番です。
今日は悩むのを一旦やめて、
寝て明日を待ってみようかな、そう思ってもらえたら。
明日もここを見てみようかな、
この人も毎日生きてるんだな、と思ってもらえたら
最高にうれしいです。
わしもおるぞ
ももんが山で、
一緒に星でも観ながら焚き火しましょう・・・。
いつでも、遊びに来てね
いっしょにグミ食べようよ
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