やなせたかし アトムポケット人物館 アンパンマン 手塚治虫 平和 戦争 【読書感想文】

本ページはプロモーションが含まれています


シンプルに感想を書くなんて事ができない一冊です。

2002年に出版された、

講談社学習コミック、アトムポケット人物館の12巻。


アンパンマンの生みの親

やなせたかしさんの軌跡を児童向けに記した一冊です。


他にも手塚治虫さんやピカソ、ジャンヌ・ダルクなど

マンガで紹介されていることでわかりやすく、

とても読みやすいシリーズです。


アンパンマンが好きすぎて


子供が大きくなると、アンパンマンを夢中で見る機会が減ります。

この世にマンガ・アニメはたくさんあり、日本は最高峰の国です。


以前娘たちが、さすがにもう、そんなに見ないかな、と言った時

少し残念な気持ちになりました。

原点に、還ってみて欲しいなぁと。

親のエゴですが、同じ人間として

心にアンパンマンの居場所を持っていて欲しい願いからです。

私も大人になってからは目にする機会が減りましたが

子供が生まれてからは一緒に観る機会が増え、

大人になった今だからこそ、その素晴らしさに改めて触れ

大袈裟じゃなく、心にアンパンマンの居場所があるのです。

かわいくて強くて、やさしいヒーローです。

ももんが
ももんが

私が好きなのは、
ポッポちゃん、あかちゃんまん、かつぶしまん、
レアチーズちゃん、しらたまさん、もぐりん、ナガネギマン、
カバお、うめぼしばあや
、です。


やなせたかしさんと、手塚治虫さん




94歳でお亡くなりになるまで

アンパンマンを描き続けたやなせさん。


本やテレビで、どういった経緯でアンパンマンを描くに至ったのかを

断片的には知っていたものの、

今回この本を読むことで、より深く知る事となりました。



この本は、やなせさんがご存命の頃に出版されていて

やなせさんのひとことが表紙裏に笑顔と共に書かれていて

それを読むだけでも、なんて尊い方なのだろうと再認識するのです。

やなせたかしさん手塚治虫さんを敬慕しています。

そのお二人に運命の糸で結ばれたような関わりがある事も

神様の思惑だと感じます。

大切なことを人類に伝えるために生まれてきた

神様のようです。


やなせさんがマンガを描くまで



5歳の頃に父親を亡くし、自慢の母親が他の人に嫁ぎ

叔父の元へ預けられて育ったそうです。


どれだけさみしかったでしょう・・・。

その中で、幼少期から絵やマンガに影響を受けつつ

叔父さんの元で育ったやなせさんは

東京高等学校図案科(現在の千葉大学工学部)に入学するために

故郷の香川県から上京したのだそうです。



その後就職するも、太平洋戦争で徴兵され、戦争を経験します。

野戦重砲連隊に入隊したやなせさんは海を渡って中国の戦線に出動します。

しかしその地は、

やなせさんの父、清さんが生前、

留学時代に書いた旅行記の地だったそうです。



戦争が終わってやなせさんが家に帰ると

弟の千尋さんが特攻隊に志願し、戦死していた事を知ります。



  
敗れたら変わってしまうような正義は正義ではない。

正義は目の前で飢え死にしそうな人がいるならば、

一片のパンを与えることだ。

引用:やなせたかし アトムポケット人物館


この思いこそが、アンパンマンの原点になったそうです。

子供の頃から絵やお話に影響され、

お父さんの歩んだ地に導かれることも

生きて帰ってこれた事も、すべて運命に思えます。

お父さんが、守ってくれたのだと思うのです。


正義はかっこいいものじゃない



漫画家として成功するまでの期間は長く

製薬会社、新聞社、デパートや脚本家、舞台美術など

色々な経験をし

昭和42年、48歳の時に「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞します。

昭和45年、51歳の頃、手塚治虫さんのすすめで制作したアニメーション

「やさしいライオン」が、毎日映画コンクール大藤信郎賞を受賞。


同年、絵本「十二の真珠」で初めてアンパンマンが世に出ます。


当時のアンパンマンは丸顔の子供の姿で、

作中ではかっこいいヒーローたちが大活躍する中、

仲間に加えてもらえず、子供たちにもばかにされてしまうのです。

次に描いたアンパンマンも、

ボロボロの継ぎ接ぎマントで登場します。

当時の編集担当から

「ボロボロマントの情けないキャラクターの物語は売れません。

二度と描かないでください」
と言われます。


ありえません。


でも、そのくやしさを胸に

我が子同然のアンパンマンと生きてこられたのでしょう。

愛の勝利です。

「正義のために戦う人は、

貧しくて新しいマントも買えない」
と考えていたそうです。


アンパンマンの連載がスタート


  
あんぱんまんよ!
世界中でたった一人になっても
僕は 君の 熱烈なファンだよ!

君こそ真のヒーローだと 僕は 信じてる!
可能なかぎり 僕は 君を 描き続けるよ!

引用:やなせたかし アトムポケット人物館


※当時はひらがなで「あんぱんまん」でした

54歳の頃、アンパンマンの連載がスタート。

その後、10年の月日が経ちます。

やなせさんは65歳になっていました。

ある日やなせさんは、

幼い子供たちがあんぱんまんを求めている事を知ります。

そこから人気が一気に高まり、

ばいきんまんやしょくぱんまんなど、

キャラクターが続々と増えていくのです。

10年、新生児が小学4年生になるほどの期間です。

とても長いですね。

つらいこともあったでしょう。

それでも描き続けるやなせさんを思うとたまらない思いです。

アンパンマンマーチ


昭和63年、やなせさんが69歳の時に、

それいけ!アンパンマン!が放映開始。

あの歌が世に出るのです。

  
そうだ うれしいんだ 生きる よろこび
たとえ 胸の傷が いたんでも

なんのために 生まれて なにをして 生きるのか
こたえられないなんて そんなのは いやだ!

今を生きる ことで 熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ ほほえんで

引用:やなせたかし アトムポケット人物館


その後シリーズ本は一千万部を超え、

瞬く間に人気者になるアンパンマン

しかしこの頃、最愛の暢夫人がんを患い、

平成5年にお亡くなりになりました。


やなせさんは落胆し、気力を失ってしまったそうです・・・。

しかし、暢夫人の生前の言葉を思い出し、立ち上がるのです。

おふたりの間にはお子さんがいなかったけれど

「アンパンマンという子供をさずけてくださった」と。

やなせさんはこの本の表紙裏でこう語っています。

  
ぼくは肉親をすべて失い、現在は全くひとりぼっちです。

それでも淋しいと思った事はありません。

僕が作ったキャラクターは2000種類以上もあり

それらはみんな僕の子どものようなものですから大家族ということになります。

引用:やなせたかし アトムポケット人物館


暢夫人との出会いも本当に素敵で、

夫を信じて、アンパンマンを一緒に育てたお母さんです。

今頃はご夫婦で一緒に

アンパンマンの活躍を空から眺めてらっしゃるのかもしれませんね。

  
なにが君の しあわせ  なにをして よろこぶ

わからないまま おわる  そんなのは いやだ!

引用:やなせたかし アトムポケット人物館

哲学です。 なんとなくの子供アニメの歌詞では到底片付きません。

とても、深いです。

ヒーローアカデミア、オールマイト


アンパンマンを最初に見た時には、頭をちぎって渡す姿に驚き

水に濡れて弱ってしまう姿など

子供も感情移入して応援したくなるアンパンマンでした。

でも、自分を犠牲にして、いつも誰かを助けているんですよね。

幼少期には父と兄の影響で毎週ジャンプを買う家だったので

当時の少年誌はわりと知っているほうなのですが

遅ればせながら「僕のヒーローアカデミア」に昨年ハマって

自分史に残る大好きな作品のひとつになりました。

その中で、オールマイトという“平和の象徴”と称されるヒーローが

最高にかっこよくて痺れ続けているのですが

オールマイトの原点がアンパンマンだったことがわかり

涙腺が異常を感知しました。



だからあんなふうに、傷を負っても戦い続けたんだ、と思うと

やなせさんの子どもでもあるアンパンマンは、

こうして次の世代に正義を継承しているのだと実感し、

その作品を通してまた、アンパンマン愛に触れたのです。

上記の、娘たちへの「心にアンパンマンを」についても

俄然説得力を増しました。

あのオールマイトも、アンパンマンに憧れたんだよ、と。


終わりに

ももんが
ももんが

やっぱり白熱してしまいました。


娘たちの小児科で、

いつもアンパンマンの動画が大モニターで流れていて

小さい子たちがわちゃわちゃとおもちゃで遊びながら

アンパンマンに夢中になる姿を見ていると

これだなぁ、と思うのです。


生まれてからそんな年数も経ってない小さな子供が

よちよち歩きで、たどたどしい言葉で

アンパンマンが活躍する姿を見て目を輝かせる姿

やなせさんが遺してくれた無敵のヒーローは今日も大活躍です。

にほんブログ村 にほんブログ村へ
にほんブログ村
スポンサーリンク
スポンサーリンク
ももんが本棚
ももんがをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました